これは朧げながらも強烈な記憶である。
いまだに、夢だったのか幻だったのか、正直わからない。でも今でも気になって仕方がないのだ。あの日泊まったのは妖怪がいるホテルだったはずなんだ。
確か今から15年くらい前のことだったと思う。
仕事関係の研修で伊豆に行った。数日間の滞在を終え、帰り道一緒だった仲良しの友人と「まだ帰りたくないよねー」「別に用事もないし」「熱海に一泊しちゃおうか!」と急遽、途中駅の熱海に降り立った。
当時はホテルのネット予約なんかはあるにはあったけど今ほどメジャーではなく、掲載している宿も少なかったのだろう。当日予約で泊まれるホテルがなかなか見つからない。
困った私たちは、駅の近くにある「無料宿泊案内所」という看板が出ているところに行ってみた。
なんだか寂れた雰囲気で、中にお客さんは誰もいない。おじさんとおばさんが何やらペチャクチャとヒマそうにおしゃべりしていた。
「あの、今日泊まれるところを探してるんですけど…。」
おじさんが、「予算は?」とぶっきらぼうにきいてくる。
「え、えーと、二食付きで温泉もあって、1万円くらいで何とかなりませんかね?」と恐る恐る聞くと、おじさんの顔は何となく曇り、「それだと限られちゃうね!今日はもう、ここしかないよ!」と、一枚のパンフレットを渡された。
そのパンフレットには『全室オーシャンビュー!』『源泉かけ流しの湯!』というキャッチコピーがあって、綺麗な客室と、窓からの最高の眺め、そしていい雰囲気の温泉の写真が並んでいたのを今でも鮮明に覚えている。
少々写真が古くさい感じはしたけど、まぁ悪くはなさそうだ。
もう夕刻が迫っていたこともあり、「他にないなら、ここでいいよね!」と友達も同意して、そのホテルに決めた。
するとそのぶっきらぼうなおじさんは親切に車で送ってくれるという。意外と親切だ。
そして、「オレがフロントに言えば特別に1万円なんだ」とおじさんは言っていた。本当はいくらなのかよくわからないけど、それなら私達きっと得したんだね、良かったね♪と友達と喜びあった。
そして、私たちはホテルに到着した…。
ホテルに到着、そして逃げるように去ったおじさん
車からホテルの外観が見えてきてから、友人と私の口数は劇的に減った。
「まさか、あそこじゃないよね?」と話していたら、そこだった。
何というか、異様な感じ。古いホテルは他にもたくさんあるだろう。
でも、そのホテルはただ単に古いとか汚いとかそういうことではなく、「え?なに?!ここって営業してるの??」という感じなのだ。
外壁はまさに朽ちる直前のようだし、外から見える客室のカーテンはビリビリに破れている。ガラスにひびが入っているのかガムテープで補修されている箇所もあった。
そして、なぜかホテルの玄関を入ると、照明がほとんどついていない。「いらっしゃいませ~ようこそ~」みたいな明るいお出迎えもない。
それはもう異様な雰囲気なのよ。
日本で、しかもそこそこ有名な観光名所で、こんな荒んだ宿に案内されることがあるもんなのかと驚きを隠せなかった。
私達があっけにとられていると、おじさんはフロントに「1万円ずつでよろしく!」とだけ言い放って、去っていった。
「やっぱりやめます」という間もなくいなくなった。おそらく数秒という素早さ。
おじさん、逃げたな!あなたいくらピンハネしているのよ。ここ1万円じゃないでしょーよ!てか、やってるの?!ここ!!
他にお客らしき人はいない。
フロントに出てきた人は、ホテルのスタッフというよりもただの主婦というようないで立ちをしていた。急に客が来て、戸惑っているかのような感じだった。そして、ひどく不愛想だ。
「お部屋まで案内します」というので、ついていこうとした、その時!!!
…今でも忘れられない光景を目にしてしまったんだ。
床を這うおじいちゃんが私らを見つめている
フロントで何やら記入させられて、後ろを振り返ったその瞬間。
「見てはいけないものを見てしまった」と私は思った。
おじいちゃんが床に這いずりながら、私たちを見つめていたのだ。
えーとここは観光ホテルですよね?ホテルのフロントに、床を這いずっている人って、いるんでしたっけ?
しかも、物珍しそうに私たちを見つめているんですけどお客さん珍しいですか?
…これは一体どう理解すればいいのだろうか。見なかったことにすればいいのかな?!
頭は完全に混乱状態である。
友人も一言も発していなかったので、きっと私と同じ状態だったのだろう。すでに、その場所の異様な空気に飲み込まれ、現実と非現実がわからなくなっていたので、完全に思考停止していたに違いない。
言葉も出ないとはこういうことなのだろう。その場を取り繕うことさえできない。心臓はバクバクしている。逃げることも隠れることもできない。
もう流れに任せることしかできない…。
案内された部屋はオーシャンビュー
これまた薄暗い階段を昇り、赤い絨毯が敷き詰められている廊下を歩いて行く。
途中で、「卓球室」と書かれた部屋があったのだがそこも電気はついておらず、ただ非常口の緑色の明かりがぼんやりと部屋の中を照らしていた。
廊下を長いこと歩かされた気がする。他にお客さんなんていないみたいなのに、なんでこんなに奥の部屋にするんだと思うくらい、長かった気がする。
でもそれはもしかしたら心理的に追い込まれていたから、そう感じたのかも知れない。
「こちらです」と部屋に通された時、部屋の中は煌々と明るかった。ちゃんと電気が付いていたのでそれだけで少しホッとして、なんだかいい部屋に思えてきた。
そして、パンフレットに書いてあったように、目の前が海。立派なオーシャンビューの部屋だ。
ただし、カーテンはビリビリと破れているし、壁は薄汚れている。
だけど明るいだけでありがたかった。
とにかく部屋以外のあの薄暗い照明は一体なんなんだ?営業していないのか?それとも何かの演出なのか?!
そしてあのおじいちゃんは?演出の一つか???
ホテルのおじいちゃんとかお客さんのうちの一人なら、それでいい。いいんだけど、それならそうと言ってくれ。何も言わずにスルーってどういうことなんだ。
私にしか見えてないんじゃないかとずっとドキドキしていた。
ホテルの人がいなくなるなり、私と友人は顔を見合わせ、「見た?」「見た」「何?」「わからない」「やばくない?」「やばい」…ともはや会話にもならない心の叫びをぶつけ合った。
でも、もう逃げられない、後戻りもできない。
今日はここに一泊するしかない。
階段を昇ってくるおじいちゃん
夕食は部屋食だった。拍子抜けするほど、普通の食事だ。
熱海の温泉宿でよく見る海の幸が豊富なお膳の夕食。ビールを頼んだら、それもちゃんと出てきた。
だんだん、「まぁ、よくわかんない部分はあるけど、ちょっと寂れてしまったホテルなだけかも知れないね。」という気になってきて、最初に見たあの異様な光景のことは忘れていた。
夕食後、せっかく温泉があるんだから行ってみようよと、廊下に出るまでは…。
薄暗い廊下を歩いていくと「卓球室」に誰かがいる気配がする。
しかし、電気がついていない。でも絶対だれかいる、と思った。
ヒソヒソと話をしているような感じ。嫌なので私と友達はそっちを見ないで通り過ぎた。もしかすると恐怖の中にいる時って「気にしないようにする」という防衛本能が働くのかもしれない。
「卓球室」を通り過ぎ階段まで来た、その時…
またいたんだわ、プレイバックパート2。
階段におるやーん、おじいちゃん、這いずって階段をゆっくり昇ってきとるやーん!!!
あまりの驚きと恐怖に、またしても声は出ない。そのまま通り過ぎることしかできない私達。
おじいちゃん、このホテルの中を自由に這いずっているんだね…。
もう、そういう事実として受け止めることしかできなかった。
温泉のことはほとんど覚えていない。
その後しばらく、また階段の前を通るのが怖くて怖くてやたらと長風呂していた気がするが、温泉が良かったのかどうかは全然わからない。
しばらくたってから部屋に戻る時には、おじいちゃんの姿は見えなかった。
そして隣の部屋から一晩中何かが聞こえてくる
部屋に戻ってからもどうにもこうにも怖くてたまらず、何もする気が起きず、この恐怖から逃れるには寝るしか手段はなかったので早々に寝た。
なぜかテレビをつけたという記憶がないんだよね。無かったのか壊れていたのか定かではないが、テレビはつけてなかった。怖かったらテレビつけそうなもんだけど。
部屋の中が静まり返ったことによって周りの音が色々と聞こえてくるようになった。
どうやら人がいる。
お客さんになんて全然会わなかったのに、人が結構いる気配がするのだ。
しかも、隣の部屋からは色々な生活音が聞こえてくるようになった。
人の話し声らしきものも、さらには「うー」とか「あー」とかよくわからない呻き声も。
水がちょろちょろと流れるような音もずっと続いていた。私はそれが怖くて怖くて耳を塞ぎながら寝た。
明日の朝を無事に迎えられますようにと願いながら…。
朝の記憶はないけど無事に帰宅した
翌朝、私たちはどう過ごしたのか記憶がない。とにかく、無事に家に帰った。
朝ご飯を食べたのかも覚えてないし、どうやって駅まで行ったのかもわからない。きっとご飯食べてチェックアウトして、歩くか何かして駅に辿り着いたんだと思う。
記憶はすっぽりと抜けている。
その後、友人とは会う機会がなくなってしまい、あの時の話をすることもなかった。
それからもう15年くらい経ってしまった。
私のこの記憶は、本物なのだろうか、それとも夢なのか。
あまりにも強烈な記憶としてリアルに残っているんだけど、いまとなっては現実とも言い切れない。
でも、何年か前に熱海方面に車で行った時、あの時のホテルは確かにそこにあった。
改装されてすっかり見違えるように綺麗になっていたが、紛れもなくあのホテルだ。
窓の形もよく覚えている。
もしかしたらあのホテルは、潰れると決まっていてそれまでの間ホテルの家族がそこで暮らしながら「無料宿泊案内」のおじさんと手を組んで何とか客を呼び、日々の生活費を稼いでいたのかもしれない。
いま冷静に考えると、その線が一番リアルだ。
そして後から思い出すと、ものすごいスリリング&サスペンス&ホラーな体験だった。
今だったら、TwitterとFacebookとインスタで一気に拡散して、妖怪ホテルとして大人気になっていたかもね。
国道135号線、熱海サンビーチの手前に貫一お宮の像がある。
その像が確か部屋の窓から見えるような場所だった気がする。熱海の中でも一等地に違いない。
もしリニューアルされたホテルがわかったなら、一度訪れてみたい気がする。